2008年12月8日月曜日

世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシー (よりみちパン!セ)

森 達也 (著)
価格:¥1,260(税込)
ページ数:153ページ
出版社:理論社
発売日:2006/12/1

【評価】★★★★☆

【読みやすさ】とても読みやすい

【概要】子供でも分かるメディアリテラシー

【備忘録】
ステレオタイプ
・イメージってどうしてもわかりやすいものに固まってしまう。その結果、実際とはかなり違うものになってしまうけれど、人はなかなかこれに気づくことができない

イメージってどう作られる?
・世界のイメージのほとんどは、テレビや新聞や映画や本などから与えられた情報で、作られている

メディア
・世界を君に伝えてくれるテレビやラジオ、新聞や本。「マスコミ」と言う人もいる。
マス・コミュニケーション
・「マスコミ」の元の言葉。正確に翻訳すれば、「受信する能力を持つすべての人に公開されたコミュニケーション活動」

広辞苑を引けば、
「メディア」の意味は「媒体」、そして「手段」。
「媒体」の意味は、「媒介するもの」、「伝達の手段」。
要するに何かを伝える手段のこと。それがメディア。
この場合の何かは、「情報」。

情報
・あることがらについてのしらせ
・判断を下したり行動を起こしたりするために必要な、種々の媒体を介しての知識

僕たちがこの世界についてイメージを持つとき、メディアはその材料となる情報を提供する媒介となる。媒介がなければ伝わらない。媒介がなければ知ることはできない。

世界についてのイメージ→世界観
人はそれぞれの世界観を持つ。僕の世界観は僕自身でもある。
あなたの世界観もあなた自身でもある。それを媒介するのがメディア。
だからもしメディアが間違えれば、僕やあなたの世界観が、間違ったものになってしまう可能性がある。

メディアはとても間違える。
なぜならメディアという機械があるわけじゃない。メディアは人。

本当は潔白な人が犯罪の容疑をかけられることを「冤罪」という。
実のところ珍しいことじゃない。
なぜなら警察や検察などの捜査機関は「人」だからだ。人である限り過ちを犯す。
そしてメディアも、捜査機関以上に過ちを犯す。

警察はこんなに間違える。あるいは間違いを隠そうとして、誰かを罪に陥れるときがある。
検察官や弁護士だって間違える。裁判官だって間違える。
そしてこれを伝えるメディアも間違える。
それを見たり聞いたりしたあなたも当然ながら間違える。
つまりメディアは、あなたと同じ。時々思い込む。時々間違える。
でも間違えるばかりでもない。なぜこんなことが起きたのかを一生懸命調査して、とても大きく報道した。これもまたメディア。

僕たちの世界観は、メディアによって作られる。でもメディアは時おり間違える。そしてその間違えたメディアを読んだり見たり聞いたりした人たちは、とても簡単にそれを信じ込む。つまり間違った世界観が、この世界に溢れてしまう。メディアにはその危険性がある。

メディアに完璧を要求することが無理ならば、僕らがメディアについて知ればよい。
メディアの仕組みについて知れば、少なくとも簡単に間違いを信じてしまうことはなくなるはずだ。

メディア・リテラシー
・間違った世界観を持たないために、世界をきちんと知るために、媒介となるメディアを知ること。知ってメディアを上手に使うこと。
・リテラシーの意味は、「識字」。字を読んだり書いたりする能力のこと。
・メディア・リテラシーの意味は、「メディアを批判的に読み解く」とか、「メディアを主体的に受け取る」という意味になる。
・「批判的に読み解く」の意味は、何でもかんでも信じ込まないで、いろんな視点から考えること。
・「主体的に受け取る」の意味は、情報をそのまま受け取るだけじゃなくて、いろんな推理や想像力を働かせること。

いろんな視点から考え、想像力を働かせるためには、メディアが間違える構造を知ればよい。一方的に情報を与えられるだけでなく、メディアの仕組みを知ることで、情報の足りないところを考えたり想像したりすることができる。具体的に何が足りなくて何が余計なのかを知ることができなくとも、足りなかったり余計だったりする可能性があることを知りながらメディアに接すれば、間違った世界観を持ってしまう危険性はかなり少なくなる。
つまりメディア・リテラシーは、あなたが正しい世界観を持つために、メディアを有効に活用するためのメソッドだ。

リテラシーの意味は、「字を読んだり書いたりする能力」のこと。
でもメディアには、新聞や本以外にも、テレビやラジオなどがある。読み書きだけじゃない。
テレビは見るものだし、ラジオは聴くものだ。でもリテラシーの意味は識字。映像を見たり音声を聴いたりするという要素が消えている。なぜだろう。
→テレビやラジオは、とても新しいメディア

メディアの仕組みは基本的に同じだけど、特にテレビは、新聞や雑誌などの活字メディアに比べれば、メディア・リテラシーが必要なジャンルだといわれている。
→テレビは、視聴する人の数が多くて、しかも見る時間が長い。要するにマーケットが圧倒的に大きい。映像の情報量は、活字に比べれば、比較にならないくらいにとても多い。

ニュースの価値を決めているのは、報道局や社会部のプロデューサーやデスク、あるいはディレクターや記者たちだ。つまり人。
人であるからには、当然ながら感情がある。好き嫌いもある。願望だってもちろんある。興味や関心の方向や大きさは人によって違う。そこには客観的な基準などない。ある程度のデータや、その事件によって社会が受ける影響とかの予想はできる。だからある程度までの客観的な価値付けは可能だけど、それも絶対ではない。結局のところ、何が大切な情報で何が不要な情報か決めるのは最終的には人なのだ。
ニュースの価値や情報を決めるのは、客観的な基準やデータだけでなく、たまたまそのニュースを担当した人の感情や好き嫌いが大きく働いている。この「感情や好き嫌い」は、「主観」と言い換えることもできる。客観の反対。つまりテレビのニュースや新聞の記事は、何を報道するかしないか、何をニュースにするかしないかを決めるその段階で、もう客観的などというレベルではない。

メディアが間違えず、そしてだまされてもいない場合でも、報道の仕方によって、事実はいろんな形に変化する。
物事は、どこから見るかでぜんぜん違う。なぜなら世の中の現象はすべて、多面的だからだ。

わかりやすさは大切だ。僕たちが生きている今のこの世界は、そもそもとても複雑で、わかりづらいということだ。その複雑さをそのまま伝えていたら、情報にはならない。
事件や現象を情報にするためには、複数の視点は必要ない。少なくしたほうがいい。ひとつなら最も分かりやすい。
メディアは情報を簡略化する。
「この犯人は残酷だけど優しいところもある」では、焦点が絞りきれなくなるからだ。
なぜならそのほうが、事件はわかりやすくなる。
事件がわかりづらいと、見ているほうは不安になる。
だから視聴者は結論がはっきりしているニュースのほうを好む。つまり視聴率が上がる。
だからテレビは、事件をわかりやすく剪定する。ある意味では仕方がない。
なぜならテレビ局は、多くの人に見てもらうことで利益をあげている。
大勢の人が見てくれるなら、それだけ利益が大きくなる。
利益が上がれば、社員一人ひとりの給料も上がる。
給料が上がれば、社員たちの家族もおいしいものを食べることができるようになる。

撮影という行為は、ちっとも客観的じゃないし、ましてや公正でも中立でもない。
僕の周りには世界がある。あなたの周りにもある。三六〇度すべてにある。
でもカメラはまず、この無限な世界を、四角いフレームの枠の中に限定する。
その瞬間、区切られたフレームの外の世界は、存在しないことになってしまう。

何かを撮るという行為は、何かを隠す行為ち同じことなのだ。

ファインダーに片目を当ててカメラを回しながら、僕は、自分が世界を選び直していることに気がついた。取捨選択している。

まず何をニュースに選ぶかという段階で、すでに個人の主観は始まっている。
テレビの場合は、これにさらに、撮影というフレーミングの要素が入る。つまり現場のひとつの断面を選ぶ。言い換えれば、選んだ断面以外は捨てる。
編集の段階では、たくさんある映像素材の順列組み合わせで、また大きく変わる。
今度はそこに、音楽やナレーション、効果音などを加える。現実は誇張される。

テレビ・ニュースを見る人のほとんどは、ニュースは客観的に作られているものだと思い込んでいる。確かに画面に映るのは事実の断片だけど、その集積は事実とは違う。
多くの人は、この仕組みを知らない。ニュースの映像に、撮る人や編集する人の感情が反映されていることや、視聴率を上げるために刺激的に見える工夫をしていることなど、想像すらしていない。

客観性と同様に、メディアは中立でなければならないと人は言う。
中立とは、両端から等距離にある位置のことを言う。
これを報道に当てはまれば、どちらか一つだけに偏らない姿勢を言う。
その両端は誰が決めるのか?
基本的には、民意や世相という言葉に象徴される時代の雰囲気だ。でもそれが、必ずしも正しいわけじゃない。

どこかに悪がいる。そして自分たちはその悪を許してはならない。そんな雰囲気を作るのはメディアだ。でも自分たちが媒介となって作り出したその雰囲気に、実はメディア自体も飲み込まれる。

もちろん、世相や民意を、正確に数値化する、つまり数字に置き換えることは不可能だ。
だからこそ、現場に行った記者やディレクター、デスクやプロデューサーたちの判断も重要になる。でもその判断に明確な根拠はない。最後は直感だ。つまりこれもまた主観。
絶対的な座標軸など、人は手に入れることはできない。
だから絶対に中立な位置など、人には絶対分からない。
それが分かる人がもしいるならば、それは人ではなくて神様だ。

両論併記の意味は、対立する人や組織などを記事やニュースであげるとき、その片方の人や組織の言い訳でなく、双方の意見を同じ分量だけ提示するというルールだ。

Aに対立するものがBであることは、いったい誰が決めるのだろう?もしかしたらCかもしれない。Dの場合だってあるのかもしれない。誰かが決めなくてはならない。つまり中立点と一緒。これも誰かの主観。
Aの意見を紹介してから、これに反対するBの意見を紹介する。理屈としては、これで両論併記となる。でもこの場合、後から出したBのほうが、視聴者や読者の共感を呼び起こしやすい。Aは途中経過で、Bは結論に使いという心理作用が、なんとなく働いてしまうからだ。

テレビは多数派に抗わない。
なぜなら視聴率が落ちるから。抗議だって来るかもしれない。
もしも局の偉い人がその抗議のことを聞いたら、そんな問題を起こすようなディレクターやプロデューサーは重要なポジションに置いてはおけないと思うかもしれない。
スポンサー起業の担当者が抗議の件を耳にしたら、もうスポンサーは降りると言い出すかもしれない。

テレビが、他のメディアと大きく違う点の一つは、このスポンサーの存在が大きいことだ。
新聞や雑誌、本は、それを読む人から料金をもらう。
ところがテレビは、視聴者から料金をもらわない。
代わりにCMスポンサーである企業から広告費をもらう。
テレビはこの広告費で番組をつくり利益をあげる。
だからスポンサーの意見をとても大事にする。機嫌を損ねないようにする。
もしもスポンサーが不祥事を起こしても、ニュースは扱わないか小さくなる。

メディアを媒介にしながら、多数派の主張や意見は、雪だるま式にどんどん大きくなり、少数派の意見は、急速に小さくなる「何か変だな」と思っている人も、その思いを口にできなくなる。何度もメディアから同じ情報を見たり聞いたりしているうちに、その「変だな」という意識がどんどん薄くなってしまう。

授業中にテレビカメラがあれば、誰だって緊張する。
誰だって普段とは違う言動をする。
カメラが撮れるものは、カメラの存在によって変わった現実だ。ありのままではない。
盗み撮りや監視カメラの映像は別にして、カメラはそもそもありのままは取れないのだ。
その嘘をあつめて、記者やディレクターが現場で感じ取った真実を追究する。
それがメディアのあるべき姿。
だからメディアをすべて信じ込んでしまうことも問題だけど、すべてを嘘だと否定してしまうことも少し違う。
ほとんどの記者やディレクターは、そんな嘘を集めながら、真実を描こうと懸命にがんばっている。

事実にないことを捏造する。これがヤラセだ。
事実は確かにある。でもその事実をそのまま皿に乗せても食べづらい。だからみんなが喜んで食べてくれるように調理する。これは演出だ。
ヤラセと演出のあいだは、曖昧でわかりづらい。

事件や現象は、いろんな要素が複雑にからみあってできている。どこから見るかでぜんぜん違う。
その複雑な多面体が事実。でもこれを正確に伝えることなどできない。だからメディアはどれか一点の視点から報道する。それは現場に行った記者やディレクターにしてみれば、事実ではないけれど、彼や彼女の真実なのだ。
視点を変えてみれば、また違う世界が現れる。視点は人それぞれで違う。だから本当は、もっといろんなかくどからの視点をメディアは呈示するべきなのだ。いや、呈示されるはずなのだ。でも不思議なことに、ある事件や現象に対して、メディアの論調は横並びにとても似てしまう。なぜならその視点が、もっともし両者や読者に支持されるからだ。

市場原理を作っている人は誰だろう?
それは僕であり、あなたである。
僕やあなたを含めての視聴者や購読者が、市場原理の主体となる。

テレビの場合、この市場原理から解き放たれることを約束されたのが、公共放送であるNHKだ。
でも今のNHKは、確かに視聴率は民放ほどには気にしていないけれど、その代わり、政府の意向をとても気にするようになってしまった。

極端なステレオタイプは、人を記号にしてしまう。
喜びや悲しみや苦しみという感情を自分と同じように持つ存在としてではなく、ひとつの括りにしてしまう。
かつてメディアが今のように発達していなかった頃、そんなステレオタイプが世界を覆っていた。
メディアが発達すれば、そんなステレオタイプは消えてしまうはずだと昔の人は思っていた。

確かにメディアは急速に進化した。僕たちは自分の部屋から一歩も出ることなく、世界のいろんなことを知ることができるようになった。でもここに考え違いがあった。メディアの量はかつてとは比べ物にならないくらいに増えたけれど、それを受け取る人の時間は、一日二十四時間で昔と変わらない。だからメディアは、いろんな現象や事件を、効率の良い情報にまとめだした。つまり簡略化。この家庭で、いろんな地域、国、組織に属する人たちが、またステレオタイプに押し込まれた。
これでは何も変わらない。いや変わらないどころか、情報を分かりやすく簡略化する競争に巻き込まれたメディアは、このステレオタイプを世界中に撒き散らす。

メディアは水や空気のように、僕たちの生活にとって、なくてはならない存在になってしまった。そして何よりも、ステレオタイプを壊してくれる可能性を持つのもメディアなのだ。人が憎しみ愛、傷つけあうばかりのこの世界を、大きく変えてくれる可能性を持つのもメディアなのだ。

正しくメディアを見たり聞いたり読んだりすることは、この世界について正しく思うことと同じ意味だ。その上で考える。自分は何をしたいのか。世界はどうあるべきなのか。何が正しいのか。何が間違っているのか。

テレビだけではない。メディアはすべて、事実と嘘の境界線の上にいる。それをまず知ろう。
そのうえでメディアを利用しよう。
NHKのニュースや新聞は間違えないというレベルの思い込みは捨てよう。
メディアは嘘ばかりついているとの思い込みもちょっと違う。人が人に伝達する。その段階でどうしても嘘は混じる。
でもこの嘘の集積が、真実になることもある。それがメディア。
だから何でもかんでも疑えばいいってものでもない。
大切なのは、世界は多面体であるということ。とても複雑であるということ。そんな簡単に伝えられないものであるということ。
でもだからこそ、豊かなものだということだ。

【感想】
・ネットに関して一切記載されていないことが残念
・メディアって何?メディア・リテラシーって何?を改めて考えるよいきっかけとなった